破壊王!

putchee-oya2005-07-16



破壊王が死んだ。


いろいろな追悼文、感想文を見た。その中で、いちばん好きだったのがこれ。


「神様は残酷なことをしなさる(森繁久彌」(「スワン式サウナ会議」より)
http://d.hatena.ne.jp/mashijun/20050711

井上雅央の言葉を借りるなら、「無理無理、無理無理無理!」です。まだ全然受け入れられないです。夢なら早く醒めてほしいです。長州力の言葉を借りるなら、「紙面飾るなって言ってんだ!」です。そんな飾り方、あんまりじゃないですか。もう、あんまりですよ。もう会えないなんて、飲み込めませんよ。無理ですよ。無理無理。無理無理無理無理。

ZERO-ONE旗揚げ第2戦の様子がありありと思い出されてきます。馳浩の解説(たしか)も含めて、面白かった。


これからたっぷり破壊王について語ろうと思っているのだが、その前にひとつ、語っておかなければいけないことがある。


実は闘魂三銃士時代の破壊王には、あまり思い入れがない。


プロレスラーとしての橋本真也の絶頂期といえば、やはり「ミスターIWGP」と呼ばれた闘魂三銃士時代だろう。体もこの頃がいちばん動けていたはずで、破壊王はタッグマッチよりもシングルマッチ中心に活躍していた。
キーワードをたどってみて各ダイアリーのリアクションを見ると、やはりこの三銃士時代に橋本真也を知って、その後プロレスを見ることはなくなってしまったけど、破壊王の名前は知ってます、昔見てました、ショックです、という人が多い。
小学生、中学生、高校生男子なら、ちょろっとはプロレスをかじる、という時代があったわけで、それが90年代の中頃あたり、闘魂三銃士がブリブリ活躍していた時代ぐらいまでだったんだろう。


橋本真也、急死」(「nothing#6」より)
http://tw1ggy.seesaa.net/article/5015001.html

俺が小・中学生の頃って、新日本プロレスが土曜の午後、テレ朝でやってて、
土曜日:プロレス見る→月〜金:教室の後ろの方で、プロレスごっこ。な中学生活だったのさ。笑
時には、蝶野のケンカキックで教室の扉ぶん抜いて怒られたり・・・ 廊下に並んでた登校する時に被るヘルメットで凶器攻撃♪黒板消しで目潰しなどなど。
ちょうど、その頃、闘魂三銃士と呼ばれる若手が3人。
蝶野正洋武藤敬司、、、そして橋本。

そうそう、こんな感じ。
ただし、これを書いた人は27歳。72年生まれの僕が小中学生だった頃は、まだこれがタイガーマスク長州力だった。


三銃士の足跡を簡単に振り返ってみよう。


武藤敬司は92年にグレート・ムタ*1としてグレーテスト18クラブ、IWGPヘビー級王座を獲得。95年には武藤敬司としてIWGPヘビー級戴冠、G1初優勝、10月9日には東京ドームで高田延彦を下している。この年がキャリア的に最初のピークだったわけだ。
蝶野正洋は91年、92年とG1を連覇。94年に3度目の優勝を果たすと同時にヒールに転向。96年にはNWO*2を結成して一大ムーブメントを起こす。
橋本真也は93年にIWGPヘビー級王座を獲得(ただし、89年にIWGPタッグ王座を獲得済み。三銃士のなかでは出世頭だった)。94年に再度IWGPヘビーのベルトを巻くと、そこから9回連続防衛の記録を築きあげる。


92年といえば、僕は20歳。ちょうどセックスの味を覚えた頃だった。プロレスの仕組みを知る前に、女体の仕組みを知ってしまった。そして、ほんのちょっと、プロレスから遠ざかった。


各人、スランプ、長期離脱などはあったが、それをお互い補いながら三銃士は90年代の新日本プロレスを支えてきた。引用にもあったとおり、もうプロレスの番組(『ワールドプロレスリング』とか)はゴールデン枠を追いやられていたけど、東京ドーム興行などが次々と成功を収めていた。坂口征二社長、長州力現場監督、闘魂三銃士がリングを引っ張って、という構図は90年代プロレスの雛形でもあった。『紙のプロレス』なんかにいる人は、それをつまらない、と斬って捨てるかもしれないし、僕も熱心に追いかけていたわけではなかったが、このあたりが間違いなく「世間に届くプロレス」の最後の季節だった。


90年代も終わりに入り、蝶野がケガで苦しみ、武藤が自分のプロレスに迷ってアメリカに渡り、橋本が新日本プロレス上層部と軋轢を起こしはじめる頃、プロレスは完全に小中学生のホビーの座から陥落する。プロレスから遠ざかっていた僕が、再びプロレスに完全勃起、じゃなくて完全復帰するのは、99年1月4日の東京ドーム、橋本真也小川直也の試合を偶然見てからだ。当時、付き合っていた彼女が部屋の中でうれしそうに小川の飛行機ポーズを真似していた。それはまた別の話。


世間にアピールできるプロレスラーだった破壊王。ドリームステージエンターテイメントがビギナーでも楽しめる新イベント「ハッスル」を立ち上げるとき、真っ先に声をかけたのが橋本真也だった。長州力のコメントも、それを裏付けている。


東京スポーツ」7月15日発売号より。

「これから先のことを考えると、気が抜けちゃった。俺が踏んばっていれたのは、橋本みたいに、もう一度プロレス界を盛り上げてくれる、って思える選手がいたからだ。アイツもそのつもりで踏ん張っていたはずだし。こんな今だからお前なんだ。お前の出番は今なんだ、って。(中略)若い。若すぎる。本当に残念だ」


破壊王が死んでしまい、ショックを受けている人の何割かは、「同時代のヒーロー」として破壊王のことを捉えていたはずだ。プロレスがどうとか、プロレスラーがどうとかじゃなく。そんな人が、死んでしまった。まだ彼も若い。多少、リングからは離れていたが、そんなことはあまり関係ない(なぜなら、みんながみんな、プロレスの流れを追っているわけではないから)。猪木も長州力初代タイガーマスクも元気なのに、まだまだ現役だと思っていた橋本真也が死んでしまった。そんな橋本を幼い頃から見ていた自分もまだ若い。仕事で功成り名を成し遂げたわけでもなく、プライベートではそろそろ結婚したいなぁ、でも相手ががいなけりゃなぁ、といった感じか。まだ感慨に耽る年齢なんかじゃない。そりゃショックだって受けるだろう。そして、そんなふうに感じてもらえるプロレスラー、いや、人間そのものが何人いるのか。


闘魂三銃士時代に思い入れを持ち、破壊王の死にショックを受けている人たちと僕の感じ取り方は、ちょっとしたギャップがあるのだと思う。プロレス観戦歴は僕のほうが先輩かもしれないが、破壊王歴はみなさんのほうが先輩だ。そして、みなさんの思い入れも、ショックの受け具合もよくわかる。でも、それを思わず分析してしまう自分がいる。


この文章はまだ前置きだ。僕がぬかるみにはまるように、のめり込んでいった新日本プロレス追放後の破壊王のことを語りたい。もちろん、破壊王はいつだって破壊王だっただろう。子供の頃、新日本プロレス入門の頃、三銃士時代、そしてその後。だけど、それがハッキリと伝わりやすくなったのは、小川直也に負けて丸刈りになり、その胸中を藤波辰爾なんかに代弁されてしまっていた時期なんかではなく、新日本プロレスを脱退し、自らZERO-ONEを立ち上げて、さらにその団体も苦境に陥ってから、不死鳥のごとく蘇った頃、だったと思うのだよ。


とりあえず、「破壊王ファンなのに、闘魂三銃士に思い入れがない」という重荷(おれにとっては)を吐き出してしまってホッとしている。こんなつまらない文章を読ませてしまって申し訳ない。
次項からは面白くなるから! 必ず! 

*1:武藤の別キャラクター。こんな感じ。http://www.njpw.co.jp/result/2005/countdown0220/img/003/002.jpg

*2:有りていに言えば、泥臭くない悪役グループ。Tシャツを死ぬほど売った。